「水と・・・あと鳥の音が。」
「足元のバッタは聴こえるのか?」
バッタ・・・バッタ?徐々に明るさを増す向こうのビルの影、その先端がいつのまにかこのベンチまで伸びてくる。老人が白い杖で指す自分の足元に目を遣ると、触角を揺らせる小さな緑色の生命が、歩いては止まり、止まってはまた歩き出し、たまに方向を変えながら、それでも同じところをくるくると回っている。
「おじいさん…どうやってそれを聴いたんですか!?」
面食らう僕に向かって、老人は首を横に振りながら搾り出すようにこう告げた。「若者よ・・・何故それが聴こえんのか!」
その瞬間、小さな緑色の生命は羽を広げ、力強く飛び立ち、生まれたての朝日を掻い潜るかのように公園を後にしてゆく。僕はしばらくその行方を見守った。いや、見守ったというよりは、持っていかれた、と言うべきなのかもしれない。そうして地を這う朝靄が街の底辺からゆっくりと消えた頃もう一度左側に目をやると、既にそこには老人の姿は無かった。
6:50AM ―Last Nite Was Da Nite 視聴する
あの禅問答のような時間は一体何だったのか?それとも、朦朧とした意識の中で静寂の色彩に侵食され掛けていた自分が、己の中で勝手に創り上げてしまった幻想だったんだろうか?
  ようやく辿り着いた自分の部屋のベッド――そこには毛布に包まった先客が、静かに寝息を立てている――に腰掛け、テーブルの上に散らかった緑色のブロッコリーを見つめながら、何とかもう一度記憶を辿ろうとするのだが、それでも結局瞼の裏に蘇るのは、羽を広げ重力を振り解いた瞬間に輝いた、バッタの生命の色だけだ。
 僕はテレビのスイッチをオンにして、無造作にリモコンを放り投げた。タメになるのかどうかさえも疑わしい英会話番組をぼんやりと眺めながら、小さな紙片に鋏を入れていく。ふと、背後で目覚まし時計をまさぐる気配を感じて声を掛ける。
「何でも無いよ・・・寝てなさい」
くの字型に曲がった毛布の塊はそれで安心したのか、ふたたび静かな寝息を立て始めた。その、ちょうどお尻にあたる部分を軽くはたいて、僕は改めてテーブルのブロッコリーの方に目を遣った。